オレ様化した子どもたち

学校・家庭

諏訪哲二さんの「オレ様化する子どもたち」をあらためて読みました。

高校教師を務めあげた諏訪さんはとてもまじめな方です。(そして私はその点を尊敬しています)

生徒が「商取引」における「等価交換」の関係を教育の場に持ち込んできたことの効果であると考える。つまり、彼らは自分がした「行為」とそれに対する「処罰」が等価交換でないことに怒っているのである。

諏訪さんは、「学校は『近代人』をつくるところ」だと考えていて、それができなくなってきたのが、1980年代だと考えています。

でも、私はそんな学校教育がうまくいっていた時代があるのかなぁとも考えてしまいます。日本は「近代の超克」どころか、「近代」もまだ迎えていない気がしているからです。

ある定年退職した高校の先生は、「今では表立って言えない体罰じみたこともやってきたけど、最後は生徒たちとわかり合えた」と言っていました。高度経済成長期は、なにもかもがうまくいっていた。そんな検証不能なノスタルジーのような気もします。

彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(…)そこで、自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『事件』の展開はこれと同じものになる(今でもそうである)。

それをなんとかするのが先生の腕の見せ所であって、あんまり(消費)社会の変化のせいにしてしまうと、先生も立つ瀬がないのではないかとも思えます。

学校での指導がむずかしくなってきているのは確かです。それを「気合」や「気概」、「情熱」で乗り越えようとしている(つまり先生から見ると「ブラック化」)のが、現代の学校教育でしょう。「制度」を修正しないで美貌策で乗り切れる変化とは思えません。

たしかに多少は子どもも変わってきているのだから、先生も学校も変わらなくちゃいけないのはまちがいないようです。みんなわかっていると思います。

ただ、「学校がサービス産業化した」とか「子どもや保護者が消費者化した」とたという理屈は、ちょっと眉に唾をつけて聞かなきゃなあと思っています。もっと根深い問題があるはずです。

子どもも保護者も若い先生たちも傷つきやすくなってきているのは、SNSの進化のしすぎのせいでしょうか。

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